模索の道 「自分の目で見、自分の心で思い、自分の魂で考え、自分の足で歩く―神に会うまで」

不確かさを生きる術

世界を不確かなものと認識しつつ、それを受け入れて生きて行くための私の心構えを纏めた覚え書きです。


不確かな世界の中の不確かな物事を知るために、見所を目で、気配を気で見、その有様を勘で見極める。尚、見所と気配の見方も、経験を通しての見極めによって学ぶ。
見極めとは、見を極めて、勘で一つの判断に辿り着くことだ。「見極め」という語には、「見を極める」という意味と「極める=決める」という意味が掛けてある。
見極めは、不確かさから始めて、確かさに近付き、不確かさに辿り着くものだ。確かさに近付くと同時に、不確かさを悟ることだ。確かさに近付ける限界を弁えることだ。確かさを保証することではなく、不確かさに戻ることだ。確かだと確認出来る前に、不確かであることを弁えつつ、勘で確からしさを受け入れることだ。
見極めで確かさに達することは出来ない。確かさに限り無く近付けるに過ぎない。見極めは確かである訳が無い。確かだと確認出来るまで見極めようとするのは間違っている。見極めた後に、他の可能性が拭い切れていないのは当然で、むしろそうあるべきだ。拭い切れたと思うのは、当て込みの証拠だ。確かさではなく、確からしさを求めなければならない。

確からしさは、確かさに出来る限り近付いていることだ。確からしさは決して確かさではない。単なる不確かさでもない。「●→○」で、●が不確かさ、○が確かさだとすれば、→が確からしさ(→は、矢印方向への動きを表しており、●から出て、○に届かない)だ。

確率も経験も、勿論期待も、見極めに逆らう理由とはならない。自分の見(或いは目と気)と見極め(或いは勘)に自信を持つべきだ。見極めに従わないのであれば、不確かさの中で生きる術は無い。
とは言え、どんなに見極めても、見極めを超えた不確かさの領域が顕在化すれば(まぐれ=見極めを裏切る好い結果、まさか=見極めを裏切る悪い結果)、それに甘んじなければならない。まさかに気付いた後の対応においても、自分の見極めに自信を持って従うべきだ。

確かだと思っていたり不確かさを意識していなかったり確かさに近付くことを怠っていたりする判断が、つまり、確からしさの無い判断、見極めではない判断が当て込みだ。過去の見極めに固執するのも当て込みだ。
言うまでも無く、見所と気配から察知したのではないのに好い結果を期待するのは、当て込みに他ならない。苛立って近視眼的になると、こういう基本的な当て込みにさえ陥り兼ねない。

見過ぎの傾向に注意し、「見を極める」ことと「極める=決める」ことの平衡を取ることも大切だ。


粟谷 聡

2007/01/24執筆、2007/03/11発表


模索の道 「自分の目で見、自分の心で思い、自分の魂で考え、自分の足で歩く―神に会うまで」
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